理之修行 事之修行

再び「不動智神妙録」です。

 

理とは「至りては何も取あはず。唯一心の捨やうにて候」と言ってます。

 

理とはゆきつくところにいけば、何にもとらわれないこと、無心になることだと言ってます。

 

「事(わざ)の修行を不仕候えば、道理ばかりで胸にありて、身も手も不働候」


「理を知りても、事(わざ)の自由に働かねばならず候。身に持つ太刀の取まはし能く候ても、理の極り候所の闇く候ては、相成間敷候。事理の二つは車の輪の如くなるべく候」

 

どれほど理がわかっていても、身を自由に働かせる技術がなければなんにもならず、事と理は車の両輪のように二つ揃ってなくては役に立たないものだと言ってます。

 

頭ではわかっていても、出来ないことのなんと多いことか・・・。
歳とともに悩みが増えていきますね。
でも仲間とともに悩みながらも楽しく稽古できることは幸せなことです。