庖丁

最近、坐禅を始めたことがきっかけで荘子を読み始めました。
孔子、孟子、老子は知っている方も多いと思いますが、荘子となるとあまり馴染みがないかも知れません。
実は私もそうでした。
そんな荘子の第三「養生主篇」に庖丁という人の話が出てきます。


ある時、庖丁は君子のために牛をさばきます。

庖丁の刀の音は冴え渡り、どれも音楽の調べに合っています。

その姿は舞っているようであり、その音は楽章の演奏そのものです。

君子は嘆息してしまいます。


庖丁は言います。
「私が牛の料理をはじめましたころは、目に映るのは牛の姿ばかりでした。ところが三年後には、牛の姿がまるっきり目につかないようになりました。今では心だけで牛に向かっており、目では見ておりません。感覚の働きは止まってしまい、ただ心の作用だけが動いているのです。」

居合に置き換えて考えると、形を意識してやっているうちはまだまだと言うことでしょう。
何度も何度も形を練り上げて、無意識下でも形が自然と出てくる状態。

身体が形を覚えているくらいまでやり通して、さらにその先で到達出来る境地かも知れません。

そこに荘子は「遊」というキーワードを使います。
無意識下でこそ出来る境地。
到達してみたい!