見えるものと見えないもの

最近、Aさんが目を瞑る稽古をするようになりました。
より色々なことを感じてもらうことを狙った稽古です。

 

人はある感覚を奪われるとそれを補おうと他の感覚器官が鋭くなります。
目が見えない感覚を耳や皮膚や鼻などで補います。手が触れている刀、その先の切っ先が今どこにあるのか?どこを通るのか?
それを感じ取ります。


特に目を瞑った稽古は感覚が研ぎ澄まされて新鮮です。見えなかったものが見えてくるはずです。

実は目で見ているものはそんなに確かなものではありません。目は自分が意識するものしか見えていません。目は出先機関であり、それを感じるのは脳です。

 

先日、飛行機に乗っている時にこんな事がありました。
ふと気がつくと寝ている間にいつの間にか前の人が座席を倒していました。寝ている間は特段の不自由さは感じませんでしたが、目が覚めて見ると何だか窮屈な感じがしてきます。さらにその窮屈さにイライラしてくる自分を感じました。
見えなければ感じなかったイライラです。こんなことは他でもあります。
ゴルフでよく「素振りシングル」などと言われる人がいます。ゴルフボールを置かなければプロ級の素振りと言うわけです。見えるゴルフボールがスゥイングを邪魔をします。

 

剣術でも相手ではなく目の前にある相手の木刀が気になります。ついつい相手ではなく木刀を見てしまいます。
試斬では目の前の巻畳表に惑わされて、斬らなければと力が入りすぎて刃筋が狂います。


見える目が邪魔をします。
普段通りの素振りで斬りましょうと言いますが、それが出来れば苦労はしません。イヤでも身体が反応してしまいます。身体は自分の思うように動かないという認識を持つところから稽古する必要があるようです。

 

見えるものを見ず、見えないものを見る稽古も良いものです。