西郷どん

今年のNHK大河ドラマが始まりました。
新しい西郷像を描いて行くそうです。

 

静稽会にも薩摩隼人がおります。
鹿児島出身の彼は「西郷どん」をこよなく愛し、尊敬しています。

私は彼の言葉と行動を通して「西郷どん」や「薩摩隼人」がどんなものかを知りました。

 

そんな彼は南洲翁遺訓を愛読しています。

*南洲とは西郷どんのことです
私は最近、この本を再読しました。
そこに西郷どんの本質を見ることが出来ます。

またそれはそのまま静稽会の「薩摩隼人」に重なります。

 

そもそもこの本は誰が書いたものか?
旧庄内藩の関係者が書き残したと言われています。
庄内藩は会津藩が降伏した後も官軍と戦い続けた藩です。
庄内藩士は降伏に伴い、薩摩藩邸焼き討ち事件や東北戦争における戦闘を咎められて厳しい処分が下されると予想していましたが、予想外に寛大な処置が施されました。この寛大な処置は、西郷の指示によるものであったことが伝わると、西郷の名声は庄内に広まったそうです。

そんな庄内藩が遺した西郷翁遺訓です。
その中にこんな一節がありました。

長くなりますが、略すと「薩摩隼人」に叱られそうなので、そのままを載せます。

 

 

道を行う者は、固より困厄に逢うものなれば、如何なる艱難の地に立つとも、事の正否、身の死生などに、少しも関係せぬものなり。事には上手下手あり、物には出来る人出来ざる人あるより、自然心を動かす人もあれども、人は道を行うものゆえ、道を踏むには上下下手もなく、出来ざる人もなし。故にひたすら道を行い、道を楽しみ、もし艱難に逢うてこれを凌がんとならば、いよいよ道を行い、道を楽しむべし。予、壮年より艱難という艱難に罹りしゆえ、今はどんな事に出会うとも、動揺は致すまじ。それだけは仕合せなり。

 


(大意)道を行うものはどうしても困難や災厄に遭遇するものだから、どのような困難な状況に立たされても、事の正否、自らの身の安危などに少しも心を惑わされてはならない。世上の物事には上手下手もあり、また出来る人も出来ない人もいるものだから、その点については自然心を動かす人も出てくるものだが、人は道を行わなければならないものだから、そんなことにかかずらっていてはならない。道を踏み行うこと自体には、道を踏み行うという、その人の意志が肝要で、上手下手も、出来る出来ないもない。だから、ただひたすら道を行い、その道を行うことを楽しみ、もし艱難に直面してこれを乗り越えて行こうとするならば、いよいよ道を行い、いよいよ道を楽しむがよい。自分は、壮年の時から艱難という艱難に出遭ってきたから、今はどんなことに直面しても動揺はしないだろう。それだけは仕合せだ。