剣術修行の旅日記(2)

剣術修行の旅日記の第二回目です。今回は江戸時代の剣術修行システムです。

 

藩から諸国武者修行の許可が下りると各藩に知らせが行きます。修行者は武名録と呼ばれる帳面を用意して立ち合った相手に姓名を記してもらいます。武名録に記載がない限り修行実績になりません。こんなことを剣術修行者がやってたなんてイメージないですよね。

 

修行者は各藩の城下町に行くと各藩の修行人指定旅籠に泊まります。基本無料です。宿代は現地の各藩が負担します。そして驚くことにこの宿の主人が「立ち合い」を斡旋します。

 

しかし相手不在等で「立ち合い」が成り立たない場合は修行者個人が宿代を払うことになります。うまく出来てますね。

 

ではこの「立ち合い」とはどんなものだったのか?

 

ある日の日記には長州明倫館道場(名門です)で87、8人と立ち合ったとあります。

多い!

しかも文之助は「剣術は盛んだが、みな、大したことはなかった。」と書いてます。

 

次の日は午前中は40人、午後は42、3人と立ち合っています。

 

とんでもない「立ち合い」の数です。

さすがに昔の剣術修行は過酷だと思っていると、どうも当時の「立ち合い」は私の思い描くものとはだいぶ違うようでした。

 

全員が一列に並んで向き合って一対一の打ち込み稽古、もしくは合同稽古のようなものだったようです。ある程度の時間が来ると相手を交替して次へ。勝ち負けの判定はしません。ですからお互い自分が上だと思って終えるケースも多かったと考えられます。よって文之助は「大したことはなかった」と日記に書けたというわけです。

 

まあ試合というより、他流の者ですが、一緒に稽古させてください。と言った感じですかね。

 

こんな感じですから、1日80人でも出来て、遺恨もなかったようです。「立ち合い」のあとには合同懇親会なども開かれ、盛り上がったなどと記されています。どうも「立ち合い」をやった夜の合同懇親会は定番だったようで、指定の旅籠も知れてますから、毎晩のように飲み会をやってます。

 

そのあたりは昔も今も変わりません(笑)

この話はもう少し続きます。