光陰の刃

なぜ真剣での稽古をするのか?

どうして真剣じゃあないといけないのか?

一歩間違えれば命すら落としかねないのに・・・

確かに「正気の沙汰」とは思えません。

 

誰しもそうかも知れませんが、自身の中に「狂気」を飼っていると言われます。もしかしたらそれで日常のバランスを取っているのかもしれません。

 

西村健著 「光陰の刃」(講談社)という小説があります。

経済界の大物団琢磨と「一人一殺」の井上日召という二人の人生がパラレルワールドのように描かれています。

そして二人を追う新聞記者(諜報部員)。

その新聞記者は二人は何故か似ていると評します。

 

世界を見てもなお、日本独自の労使関係があるとして階級闘争や労働組合を否定し、「恒産なき者は恒心なし」として独立生計を営む者でなければ、国政に関わる責任を有さないと普通選挙にさえ反対した団琢磨。

坐禅により万物同根、天地一体を悟ったと国家改造を目指して、一殺多生から一人一殺のテロを指揮した井上日召。

 

出会うことのない二人は最終的には暗殺という形で交差してしまいますが、もしかしたら本来永遠に交差しないはずの二重螺旋階段を別々に昇っていたのかもしれません。


真剣を振り回す酔狂な老人の戯言です。


そしてこの井上日召が私の幼少期にまだ生きており、団琢磨暗殺の実行犯菱沼五郎も後に茨城県の県会議長までつとめて1990年まで生きていたというのも驚きです。


ちなみに小説のタイトルは「光陰の刃」ですが、団琢磨は刃ではなく銃弾で暗殺されています。

 

またこの小説を書いた西村健氏はラサール→東大→官僚という絵に描いたようなエリートですが、入省後4年で退職して、「狂気」の小説家に身を置いています。