動なる稽古、静なる稽古

「居合は動禅である」は正しいのか?

そんな思いから始めた坐禅でした。

もう随分と経ちました。しかしまだ答えは出てません。

 

ただ最近では坐禅をあまりにもmental面からのみ取り上げていないか?

という思いに至っています。

 

「居合は動禅である」も坐禅のmental面から見た居合の感が拭えません。

 

前にも書きましたが、長い時間かつ心穏やかに坐り続けるにはある程度の経験とテクニックが必要です。

 

間違いを恐れず言い切ってしまえば、まず力を抜くこと、そして軸を保つことが肝要になります。

しかし実はこの二つは矛盾してます。

 

力を全部抜いてしまえば坐っていられません。軸を保つためには最低限必要な部分の筋肉は必要です。そのバランスのコツを掴むにはある程度の時間が必要になります。

 

これ、どこかで聞いたことないですか?

そうです。居合稽古中にもよく言われることです。矛盾した身体の使い方を同時に求められる難しさ、わかりますよね。

 

心を穏やかに保つためには、坐り方は重要です。痛い、痺れる、苦しい、辛いでは長時間穏やかな心を保つことは出来ません。正しく坐ることは言わば身体が楽になるように坐ることです。そして楽に坐り続けるためには力を抜くこと、軸を保つことが必要になります。

 

そういう意味では動く居合と違って、静かに坐っている坐禅は究極のphysical稽古とも言えます。

 

動かないphysical稽古

 

もしかしたら居合にはこの静かなphysical稽古が必要なのではないか?

そんな風にも思えてきます。

 

坐禅の居合に対するmental面の効果はもちろんですが、physical面の効果にもっと目を向けても良いのではないか?というのが今のところの命題に対する私の思いです

 

「坐禅は静居合である」

 

居合にはphysical面で動なる稽古と静なる稽古が必要なのではないかと感じています。