忠臣蔵に寄せて

12月14日と言えば忠臣蔵.。もうすぐです。

先日、本所松坂町から泉岳寺までの赤穂義士凱旋の道を自転車で辿ってみました。激しい戦闘のあと武器を携えたまま、あれだけの距離の雪道を歩いたというのは驚きです。

そんな赤穂義士たちも最後は切腹したわけですが、そんな赤穂義士たちの切腹の話です。

 

昔、「切腹」という映画を観て衝撃を受けた記憶があります。

 

「切腹」は小林正樹監督、仲代達也主演の1962年公開の映画ですが、2011年には「一命」というタイトルで三池崇史監督、市川海老蔵主演でリメイクもされています。こちらの映画も素晴らしいです。

 

どちらも原作は滝口康彦「異聞浪人記」です。「切腹」の仲代達也と丹波哲郎の決闘シーンは真剣で撮影されたと言われています。今では考えられないですね。名優揃いでなかなか見応えのある作品です。

 

海外では「ハラキリ」と言えばそのまま通じるほど有名です。今でも切腹が武士の代名詞のように思っている人もいるかも知れませんが、実は江戸時代も元禄の頃には切腹の作法を知っていた武士はそれほどいなかったようです。

 

「忠臣蔵」に出てくる奥田孫太夫は本懐を遂げた後、白金の熊本藩下屋敷へ預かりになりますが、熊本藩士の堀内伝右衛門との間でこんなやり取りがあったと「堀内伝右衛門覚書」に記されています。

 

「さて私は切腹の仕様存ぜず候。いかが仕るものにて候やと申され候につき、我等申し候は、神以て私も終に見申したることござなく候」

 

まあ現代風にすれば多分こんな感じのやり取りだったと思います。

 

奥田孫太夫「それがしは切腹のやり方を存じませぬゆえ、かようにしたらよろしいかお教え下され」

 

堀内伝右衛門は「いやいや、お教えして差し上げたいのは山々なれど、なにせ我らも見たことありませぬものですからお教え出来ないのです」

 

えっ?え〜!

 

奥田孫太夫と言えば江戸急進派の重鎮で当時57歳。また堀内伝右衛門も同じ歳です。そんな年齢の人でも切腹の仕方を知らなかったとすれば、後は推して知るべし。

それにしても赤穂義士が切腹のやり方を知らなかったとは驚きです。

そんな平和な時代に起きた忠臣蔵だったからこそ当時でもすごい出来事だったのだろうと想像できます。

 

ちなみに新橋にある和菓子屋新生堂には「切腹最中」なるものがあります。

浅野内匠頭がお預けになった田村右京大夫上屋敷跡にお店があることからそんな最中を作ったそうです。

 

最中の形が切腹をイメージしているような、していないような・・・

味は素晴らしいです!

12月14日には赤穂義士を偲んで食べてみるのもよろしいかと。