真剣に導かれ過ぎる

先日、霜剣堂さんから今年のカレンダーを頂きました。

今年の表紙は則房、1月は信房でした。今年も刀カレンダーで楽しめそうです。

 

さて昨年末に武術家のT先生とお話しする機会がありました。先生はこんなことをおっしゃいました。

 

「真剣は使い易い」

 

私は先生も真剣稽古の有用性を語ったものと思って、「もちろん、その通り!」と思った瞬間にT先生の言葉が続きました。

 

「ただ導かれ過ぎるんですよ」

 

これってどういう意味でしょう?

 

先日、静稽録「桐木刀」を書いている時に何となくその真意が見えたような気がしました。

 

なぜあの時の私にとっては桐木刀の稽古が必要だったのか?

振り返ってみるとそこに答えに近いものがあるような気がします。

 

そもそも剣術や居合は真剣を使うことを前提としているはずであり、当然稽古もそうあるべきと思っていました。ゆえに稽古も真剣でやるべきと。

 

真剣は扱いによっては自他ともに大きな危険を及ぼします。しかしそこさえ気をつければ模造刀や木刀よりも使い易いというのも確かに事実です。これは静稽会で真剣稽古をしている人は全員認めると思います。

だとすれば・・・

 

真剣にこだわるあまり真剣が主役になってはいないか?

本来の稽古の主役はなにか?

使いやすい真剣にだまされていないか?

 

「真剣は導かれ過ぎる」の意味を考えると「稽古とはなにか?」がうっすら見えてくるような気がします。

 

T先生はそんな意味で言ったのではないと言うかも知れません。

今度お会いした時に聞いてみたいと思います。