一見の先

「見ると聞くでは大違い」

 

「百聞は一見にしかず」などとも言います。

 

初めて居合を見た時、私はこんなことを思いました。

 

「こんな簡単な動きなら、三ヶ月も習えばあとは一人で出来る」

 

そう思って私は居合を始めました(笑)

しかし・・・

「見るとやるとは大違い」でした。

 

世の中にはやってみないとわからないことがたくさんあります。

絵もただ「見る」のと「描く」では絵がまるで違って見えます。

 

以前「居合は動禅である」と書いてあった本を読んで「なるほど!」と思っていました。

そしてそのままその言葉を人に投げつけておりました。

しかしある時、

 

「本当にそうなのか?」

 

居合はともかく、まともに坐禅を組んだことも無いのに・・・

一方通行で語っていないか?

 

そこから臨済宗系の坐禅会に入って5年間本格的に坐禅に向き合いました。

そこには思っていた坐禅とは違う世界がありました。

やがて私の中で「居合は動禅である」の意味も変わっていきます。

今では「坐禅は静居合である」と思っています。

もしかしたらこの先さらに変わっていくかもしれません。

それでも本に書いてあることをそのまま受け止めていた時とは比べ物にならないほどリアルに近づいていると感じます。

 

このこと以降、「一見」の先が気になるようになりました。

やはり見るだけでは足らない・・・

 

私は10年ほど前の2013年10月22日付静稽録で「居合はスポーツではない」と書いています。今もそう思っています。


これにはいろんな意味合いが含まれていますので、一筋縄ではいきませんが、それでも敢えて自分に問います。

 

「そもそもおまえは「スポーツ」というものを本当にわかっているのか?」

 

振り返ってみれば、私はこれまで「スポーツ」を科学的に学んだことはありません。ただ学校や部活、趣味レベルで「スポーツ」をやっていただけです。

 

「居合」と「スポーツ」とは何が違うのか?どう違うのか?

普段の稽古で体の使い方などが違うことは感じています。しかしそれを系統だってつまびらかにしてきたわけではありません。

 

静稽会が「日本古来の体の使い方」を稽古しているとすれば、それは「スポーツ」のそれとはどこがどう違うのか?

 

残念ながら現代では「日本古来の体の使い方」が確実にわかっている人はいません。

どこまでも「推察」です。


日々の稽古の中、数少ない古い書物や資料を参考に体と対話しながら手探り状態です。

それに比べて現代スポーツのことを科学的に学習、実践することは比較的容易です。

書物や映像、資料やデータもたくさんあります。まずは確かなところから手をつけるというのが常道です。

 

一度「スポーツ」とは何か?から「日本古来の体の使い方」にアプローチしてみるのも面白いのではないか・・・そんなことを考えています。