写実の極致は慈悲

静稽会では他流の形(型)も研究し、稽古します。

 

「学ぶ」の語源は古語の「真似(まね)ぶ」だと言われていますが、まずは真似することから始めるのが基本です。

 

門外不出の昔と違って最近では動画や伝書、著作などの参考資料はそこそこ見ることが可能ですので、あらゆる角度からトライしていきます。時には国会図書館などにも出向いて文献などを探します。

 

それでもわからないことはたくさん出てきます。

(よく「伝書を読めばわかるのでは?」という人がいますが、おそらくそういう人は伝書というものを見たことが無いのだろうと思います)

 

それでも昔はどうだったのか?と考えると師が手取り足取り具体的に教えていたという話は全く聞きません。

結局は師の動きを見て、師の言葉などから自身で気付くしかなかったはずです。

 

昔と違って今では一から十まで手取り足取り教えるところもあるようですが、私は必ずしもそれが良いとは思っていません。それではかえって伝わらないものがあるという現実も目の当たりにしています。

 

琳派という桃山時代から近代まで続いた大和絵の流派があります。

本阿弥光悦、俵屋宗達から始まり、尾形光琳、酒井抱一、鈴木其一と続いていきます。

 

琳派は家系や直接師事した師弟関係で続いてきたわけではありません。時代を超えて「私淑」して断続的に継承されてきた流派です。おそらく先代が描いた絵を模写し続けた先に自身の境地を見出したのだろうと想像します。

直接の師事ではなく時間や場所を超えて受け継がれる良い例だと思います。

 

真似することを軽視する人もいるようですが、とことん真似することはそのものになり切ることであり、そのものに対する強い想いが無いと出来ません。表面だけを真似する中途半端な真似は劣化コピーにしかなりません。

 

大好きな高島野十郎という画家がこんなことを言っています。

 

「写実の極致は慈悲である」

 

長年にわたって何度も何度も同じ形(型)を稽古し続けると必ず見えてくるものがあります。