坐禅は「悟り」を開くための手段だと思っている人は多いと思います。
「カァーッ!」
禅宗の曹洞宗では「只管打坐」(しかんたざ)と説かれています。
「只管」は「ただひたすら」
「打坐」は「坐ること」(打は強調)
坐禅は「悟り」を開くための手段ではなくただひたすら坐ることを目的とする業だと。
私は某坐禅会で指導を受けながら五年間坐り続けたことがあります。
始めたきっかけは「居合は動禅である」という言葉を確かめるためでした。
未だ包括的かつ完全な答えは見つかっていませんが、居合を含めた古武術の稽古には坐禅と通じるものがあるという確信には辿り着きました。
どちらかと言うとこの確信は心の面よりもフィジカル面での確信と言えます。心に至らないのはまだ私の坐禅経験が足りないのだと思います。
私が坐禅指導を受けていた会ではまず約30分間坐ります。短い休憩を入れてさらにもう約30分。合計約一時間です。
当初はなかなか自分の体の在り処(ありか)が掴めなくて坐り続けること自体に苦労しました。坐り始めてしばらくすると体のあちこちが痛み出します。痛いから動きます。叩かれます。「無念無想」どころではありません。とにかく早く終わることばかり考えてました(笑)
しかし何回も坐っていくうちに長く坐るためには体がどうなったら楽なのかが分かって来ます。
骨をどうしたらよいか?
筋肉をどう使ったらよいか?
あるいはどう使わなかったらよいか?
具体的なことは自分の体とじっくり対話しながら長い時間をかけて何度も坐ってみないとわからないと思います。そして坐るために必要な筋肉や柔らかさを身につけるためには多少時間がかかります。
坐禅は心よりも先にまず自分の体と向き合うことになります。
私の場合は坐り続けて二年が過ぎた頃にようやく坐る痛みから解放されたと記憶しています。自分の体がようやく一つになった感覚でした。
古武術を稽古される方々にそんな「フィジカル坐禅」をお勧めします。
「只管打坐」の末にきっと自分の体の在り処がわかるはずです。
